政教分離

公明党創価学会関連動画

民主党・石井一議員が公明党創価学会の関係追及

【日テレ動画】から

同じ動画(登録が必要)

■【そこまで言って委員会】から

欲求不満の心理状態と、成熟した人格について

本日は二本立て。

■■フラストレーション(欲求不満)の心理■■

緊張状態、不安、攻撃感情、どうにもならない(やるせない)感情状態により、知的働きの低下が生じ、合理的反応や非合理的反応の生起、破局的反応が起こる。
キレる、など。


【ストレス状態に起こりえること】

・攻撃的行動・・・外罰的反応(自分は悪くない、あいつが悪い等、自分以外に責任を求める)、内罰的反応(自分が悪い)、無罰的反応(誰も悪くない、仕方なかった)

固執的行動・・・ステレオタイプ(紋切り型)に持続する反応、柔軟性のない行動。どうでもいいことに固執する。

・退行的行動・・・幼稚で未発達な行動形式を繰り返す。聞き分けのない行動など。大人でも起こる。

防衛機制・・・不安定になった自分を守る反応。合理化(ぶどうは酸っぱい)、抑圧、投射、逃避など。結局のところ根本的な問題解決にはならない。

・他に、意味のない行動を繰り返す、神経質になる、決断力が鈍くなるなど。
ステレオタイプと欲求不満は関連する。


何かの被害に逢った時、精神的に弱っている時、ストレスの多い環境にいる時、などなど、ストレスのたまる要因はそれぞれに違うだろう。
攻撃的な人、紋切り方の人をみかけたら、ひょっとすると他者への攻撃そのものが目的ではなく、本人のストレスや満たされない思いが外に向かって向けられたのかもしれない。
そうすることでしか自分を守れない時期が生じることも、人にはあるし、そういった状況になれば誰にでも起こりうる。


■■成熟した人格の特徴■■
 byオールポート・G.W(アメリカ)

・自己中心的な狭い興味や活動を離れて、自分以外の人や事物、事業、仕事などに打ち込む。それらによって自己を拡大すること。
自己の内部を豊かにするだけでなく、関わる世界と広く深く関与してゆくことができる。またそれを支える目標がある。そういった目標がないと、いつまでも子どもっぽい人格にとどまらざるをえない。

・他人との暖かいつながり
さりげなく誠実に他者を見守る。

・情緒的安定・自己受容
自分の内部から生じてくる種種の情緒(キレる、怒る、恐れる、性的衝動等)を「自分の感情」として受け入れることができる。

・自己客観力、自己洞察力とユーモアがある。メタ認知
「自分の姿」と考えているところが、他の人びとが彼について考えている所と一致する程度によって計られる。(自分の思い込みによる自画像だけではメタ認知とはいえない。)
メタ認知ができない人は、その時の状況や感情に左右されやすくなり、判断を誤ることが増えるとされている。

・自己拡大と自己客観視の二つを統合し、統一的な哲学、人生観を持つ。自己の運びができる。

メタ認知能力」・・・認知を認知する能力。
1、考える材料としての知識があること。
2、その知識をもとにいくつものパターンの推論ができて、その中からいちばん適切な推論を選ぶことができること。
3、知識が十分であるか、感情に流されていないか、知識を適切に応用させているかなどの適切なモニタリングができる。など。


自己の拡大というのは、幅広い人間関係との交流と、深い自他の洞察力と受容ということともいえる。
自分の心の世界をいくら広げても、それが外の世界と交流し得ない限りは、あくまでも自分の内面的世界に留まっているのにすぎないのかもしれない。
自分の殻から出て、他人とかかわり、親しい相手はもちろん、嫌な相手との上手な付き合い方も、学びながら幅広い人間関係を構築してゆくことで、自分自身がさらに深まってゆく事が望ましいかも。
バーチャル世界の交流はあくまでも少ない情報で「都合よく切り取ることができる」世界。現実世界とは分けて考えたほうがいいだろう。

余談ですがオールポートはハーバード大学で研究中、スタンレーミルグラムと一緒だったそうな。

散歩虫さんとこ

散歩虫さんが富士門合宿に出かけられた。
その内容がブログに書かれている。

【そのいち】
http://sampomusi.blog108.fc2.com/blog-entry-61.html

【そのに】
http://sampomusi.blog108.fc2.com/blog-entry-62.html

【そのさん】
http://sampomusi.blog108.fc2.com/blog-entry-63.html

散歩虫さんは、今回の合宿だけでなく、創価問題、宗教問題、日蓮御書講義などなど、
様々な講演や勉強会に行かれるたびに、毎度身につけて帰ってくる。
ブログを読むだけでも、その内容が充実していることを想像できる。
私の数少ない勉強会参加でも充実しているから、
回数を重ねればなおのことだろう。

自分で足を運んで得るものは大きい。
宗教問題もカルト問題も、
ネット情報ではわからないことのほうが、実は多い。



この合宿の一週間前、私は別の寺で尼僧さんや知人達と集まり一泊していた。
最近の信仰に関する話、仏教談義(主に修行について)、食事作法などをする。
こちらも、非常に実りのあるものだった。

権威に関するもの つづき

権威主義的パーソナリティ

前にも書いたけど「権威主義的パーソナリティ」は、エーリッヒ・フロムが提唱した概念。

集団が共通する基礎的経験を持ったり、共通の生活様式をとる結果、その集団に共通して見い出されるパーソナリティ構造が生じる。
そのなかで権力への無批判な同調とともに、自分より弱い立場の者に対して威圧的態度をとるようになる、という二面性を合わせ持つ心理を権威主義的パーソナリティと呼ぶ。

●権威との関係

権威とは、あるものが「もっている」資質ではない。
権威は、あるものが他のものをかれよりも優越したものとして見上げる人間関係と連関(←本そのまま)している。
しかし
(A).理性的権威と名づけることのできるような優劣関係 と、
(B).禁止的権威と称すべき優劣関係 とのあいだには、根本的な差異がある。

そのまとめ

(A).教師と生徒の関係 → 教師は生徒を伸ばすことができれば満足する。
失敗すれば、それは教師の失敗であり生徒の失敗となる。

・権威に服従するものを助ける条件。生徒は学ぶほど、かれと教師とのあいだのギャップは小さくなる。生徒はいっそう教師と同じようになる。
・愛情、賞賛、感謝などの要素が支配的。権威は同時に、ひとが部分的あるいは全面的に自己を同一化したいとのぞむ規範である。
・権威に服従している人間が、いっそう強くなり、したがって権威にいっそう類似してくる度合いに比例して、権威は減少していく。

(B).奴隷所有者と奴隷 → 奴隷所有者は、できるだけ奴隷を搾取しようとする。できるだけ多く搾取できれば、かれはいっそう満足する。同時に奴隷も、ほんの少しの幸福であっても、できる限り自分の要求を守ろうとする。両者の利害ははっきり対立しており、一方の利益は他方の損害である。

・搾取の為の条件。その距離は、関係が長引くほど拡大するのである。
・搾取者に対する反感や敵意がおきる。かれに服従することは自己の利益に反している。しかし奴隷の場合などでは、憎悪はほとんど勝利の機会もなく、ただ苦痛に服従するような矛盾を導くだけである。そのため憎悪の感情をおさえ、ときには盲目的な賞賛の感情におきかえようとする傾向が生まれる。(1、憎悪という苦痛に満ちた危険な感情を取り除く。2、屈辱の感情をやわらげる)
・結局のところ、憎悪か、あるいは非合理的な過大評価や賞賛が増大する傾向にある。

・理性的および禁止的権威の差異は相対的なものにすぎない。権威の場面を具体的に分析して、つねに権威のどちらの種類が重いかをきめることが大切なのである。

・権威はつねに、「汝はこのことをなせ」「あのことをなすべからず」と命令するような個人や制度であるとは限らない。この種類の権威は外的権威と名づけることができるであろうが、権威は、義務、良心あるいは超自我の名のもとに、内的権威としてあらわれることもある。

権威に関するもの

■「権威」と「権威主義」と「権威主義パーソナリティ」のそれぞれにせまってみた過去記事のまとめ。

権威とは何だろうか。

「権威」
特定分野において専門的な知識を有する人などを称する場合に用いられる。
「権力」(威嚇や武力によって強制的、優勢的、一方的に同意・服従させる能力・関係)とは違うものである。「権威」により相手に自発的に同意、服従させるものとはわけられる。

「権威」というものはごくごく日常や世間にあふれ、各分野に多岐にわたり、権威にって与えられる影響は大きいものであり、それらによって社会の秩序があり、統率がなされ、文明文化が発達し、政治が行われ、社会が整えられていくものであることが伺える。

権威の影響力と、権威に対する個人個人の姿勢とバランスが小さな社会、または大きな社会、要するにグループをつくりあげている。

「権威」そのものは悪とみなすものではなく、放棄するものではなく、権威と自分、あるいは権威と社会の関わり方や扱い方が問題になってくること、また、権威とどのような付き合い方の環境に自分がいるか、ということが権威主義的パーソナリティと関係する。
権威との関係が相互的であるか、搾取的であるかも違いをみるひとつであることがうかがえる。(ただし、搾取されている場合も、搾取されていると自覚を持つことは案外難しいかもしれない)

権威に盲目的に服従する(させる)社会がなされれば果てはナチズムや全体主義、権威を無視する社会がなされれば果てはアナーキズム、というなんともよろしくないことになる可能性も含むことも伺える。
そして、権威に(無批判に)従うことをよしとする社会をなす人があるとしたら「権威主義」や個々における「権威主義的パーソナリティ」を問うてみる。
「権威への批判の姿勢」も同時に問う。

●権威がある=尊敬すべき対象?
すべてにこう思ってしまうのは権威主義かもしれない。
権威に尊敬するのではなく、実質的に権威の中身を問うことが必要だろう。
また権威と聞くと自動的に胡散臭く思ってしまう。これもある意味権威主義の裏返しの可能性あり。

権威主義を解体するには、「多元的な視野」が必要。
正解は一つとは限らない。
この「多元的」というのが、自分では多元的なつもりでも俯瞰のつもりでも井の中の蛙にすぎないことはいくらでもある。

●政治や組織における家父長主義的な態度を権威主義と同義に捉える考え方もあるが、必ずしも少数支配者の権威に依存することのみが権威主義であるというわけではなく、多数の権威や思想の権威に依存することも権威主義の一種である。

●反権威思想も権威となりうる。

●権威という装飾品、「ブランド」という面もひとつ考えてみる。
ブランドというのは一定の品質として「信頼できるもの」という面を持ち、ブランドを選択することは、粗悪品をつかまされない一つの選択基準であり、ひとつの智慧ともいえますが、「ブランド」「有名ブランド」つまりそのものに価値を問うことなくとびついてしまうといった光景は、いってみれば権威に盲目的に服従するパターンと同じかもしれない。

続く

権威主義的パーソナリティ 番外

映画
【ヒトラー最後の12日間】

Gyaoにて9月1日までだそうです。

この映画は映画館で観たけど、観客に女性は少なく、年配の男性が多かった。

(以下に関連動画あります)

映画はドキュメンタリータッチで、ヒトラーとその周辺にスポットがあたっている。
ヒトラー役がハマりすぎて、神経質な手の動きが実に生々しい。
とても悲しい映画だと思った。

権威主義的パーソナリティを考えるとき、本当はナチズムは少しだけ別立てで考える必要がある。権威主義的パーソナリティ即ナチズム、即ファシズムではないからだ。

そしてただ個人の問題というよりも社会性から生まれた心理学の問題であると捉える必要がある。
ヒトラーだけでなく、その時代の歴史的背景や経済的背景、また周辺幹部や群集の心理もまた「独裁者ヒトラー」「ファシズム」を作り上げていった経緯がある。
もしその時代その国にいれば、誰でも他人事ではないのだ。
特に日本人は考えてみた方がいいだろう。

また、心理学用語は攻め道具、批判道具ではないという認識が必要だと思う。
とかく攻撃として使われがち、受け止めがちだ。
そもそも権威主義的パーソナリティ自体が良い悪いではなく、それがまともかどうかではなく、「権威主義的パーソナリティとは何か」を把握し「ヒトラー」や、ナチズムやホロコーストを作り上げていった「幹部」「群集」を身近に考え、家族と考え、また自分に照らし合わせた時、さて自分はどうしていくか、というところが権威主義的パーソナリティを考える肝心なポイントだと思う。
言ってみればメタ認知の道具と考えていいのではないだろうか。

権威主義的パーソナリティにないものを探し出し自分に身に付ける。
それはなにか。
調べれば、いくつも見つけられると思う。


付録
ヒトラーの周辺の人動画。

【ハインリヒ・ヒムラー】動画
(当時の映像ですが、かなり残酷なシーンが出ます。
ショッキングな映像の苦手な方は観ないほうがいいかも)

【ヘルマン・ゲーリング】動画 ナチス2番手

【ホロコースト】

ユナイテッド93

93

9.11テロの時に唯一標的へ到着する事をさけて墜落した飛行機がユナイテッド航空93便。
離陸から墜落までを追う。
ネタバレもないので、話の流れは皆さんがテレビでみた事件のとおり。
しかしこの映画は、とても臨場感がある。それにはそれなりの理由があった

正式な事件記録に基き、俳優達も残された家族に対面して話を交わすことにより、当日の状況や、搭乗者の個性やその家族や友人達の背景を掴んでいる。
空港関係者や軍事関係者も本当の人物が多くこの映画に出演している。
テロ当日に本当に管制塔や軍事の仕事に就いていた方もいる。
なにより、そこにいて現場の指令を出していた方が、なんとご本人だ。
加えて、専門用語の説明といった、ある意味「映画っぽい」わざとらしいセリフがない。
予想もしない出来事に、管制システムが唖然として混乱する様子を、そのまま示している。
機内のカメラワークも、かなり目線に近いものが多かった。
とても現場に即した環境ということを設定して作られている。

エンターテイメントを追う視聴者全員にというより、本当の被害者遺族達が納得いくように配慮され作られた、遺族のための大真面目な映画なのだと思った。それがかえって皆の心を揺さぶってヒットにつながったのだと思う。

プレ試写会もまず被害者遺族から。一番シビアな視聴者だろう。
その家族達のコメントも、93便の搭乗者や乗務員の名前も、DVD特典のほうにあった。
私は一度目は普通に観て、つぎにDVD特典の搭乗者の家族達の取材風景を観て、それから今度は監督の説明入りでもう一度映画を最初から観た。

事件自体は今もまだ謎が多く、単純な宗教テロというばかりでなく、単純な悪と正義というわけでもなく、もっと複雑な政治の陰謀説やビル倒壊に水爆説などもあるらしいけど、真相はよくわからない。
けれど、「搭乗者の立場」からこの事件を考えてみるというのはとても意味があると思う。