権威主義的パーソナリティ 1

●「権威主義的性格」
権威に対して憎しみと反抗と憧れとが同居する。

かれは権威を憎み、それに反抗したが、いっぽう同時に、権威にあこがれ、それに服従しようとした。かれの全生涯を通じて、かれが反抗した権威と、かれが賞賛した権威とがつねに存在している。

 かれは極度の孤独感、無力感、罪悪感に満ちているとともに、いっぽうはげしい支配欲を持っていた。かれは脅迫的性格にのみみられるような、はげしい懐疑に苦しめられ、内面的な安定をあたえるもの、この不安の苦しみから救ってくれるものを、たえず求めていた。

 彼は他人を嫌い、とくに群集を嫌い、自分自身をも、人生をも嫌っていた。そしてこの憎悪から、愛されたいというはげしい絶望的な衝動が生まれた。かれの全存在は恐怖と懐疑と内面的な孤独に満ちていた。このようなかれのパーソナリティの基礎によって、かれは心理的に同じような状態にあった社会集団のチャンピオンとなることができたのである。
P75

確実性への強烈な追求は、純粋な信仰の表現でなく、たえられない懐疑を克服しようとする要求に根ざしている。P86

いずれもフロム「自由からの逃走」より。
権威主義的パーソナリティを学ばせていただいて、いくつか思ったこと、感じたことがある。

脱会者や非活動者などのカルト問題を扱う多くの人は、「権威主義」という言葉はしばしば出てくるが、「権威」「権威主義」「権威主義的パーソナリティ」「反権威主義」についてはあまり知られてはいないのではないかということ。
権威主義に反抗するが、その批判や反体制のあり方も、また権威主義的であることがしばしばあること。
そして、多くは自分が権威主義的だなんて思ってはいないこと。
権威主義的な人ほど、その疑いを自分に持てない、もしくはじゅうぶん自己観察しているつもり、かも、と考える事もできる。

思うのは、権威主義的パーソナリティは、嫌うものではないということ。
愛憎離れて寛容をもってするというのは、きっと地道で長い作業なのだろうけれど、実践できないわけではない。これはカルト問題の扱い方ということにも関連する。
いずれにしても、簡単に答えなんてここで出せるものじゃない。
言うは易し、行なうは難しだ。

この権威主義権威主義的パーソナリティ、もう少し扱ってみたいと思う。
フロムの他に、アドルノと、「自由」においての各種パラダイムも必要なようだけど、まぁこれまで勉強してきたものも含めてボチボチ。

これを考えるきっかけと多くのヒントを与えてくださったいわたちさんに感謝したいと思います。