有意義な議論

議論に関するものを少し。
「数学屋台」(芳沢光雄 著)より。

ネットの議論でも、不毛なやりとりで終わるものが少なくない。
けれども、それにはそれなりの理由がある。
それは出だしからすでに始まっているのだ。


■およそケンカの原因の多くは私が見る限り、言葉の定義による食い違いがほとんどである。

 そして、言葉の定義による食い違いが原因とならないケンカは、盗み、横取り、破損、障害などが原因の争いごとである。こちらの方のケンカを別にすれば、ポイントになる言葉に関して事柄をしっかりしておくことが、ケンカの防止につながるのだ。
 実際、すべての言葉の定義を事前にしっかりしておく数学研究の世界ではケンカはない。


■ものごとの傾向や特徴を納得してもらえるような説明を考えるとき、どのような説明があるだろうか。
それには1「理由」と2「データ」を使う2種類がある。

1「理由」を使って説明するとき注意しなくてはならないことは、何を仮定してどのような結論を導いたかを、はっきりさせなくてはならないことである。

「平等に税金を取るという観点からするとその政策は間違っている」「いや、間違っていないよ」と議論しているのをよく聞くが、その多くは両者の平等の「定義」が違う。一方が、誰に対しても一定の税率を課すのが平等と考え、他方は、高額所得者の税率がより高くなる累課税が平等と考える、というように。
およそ仮定が異なれば、結論が異なっても何ら不思議ではないのだ。

2「データ」を使って説明するとき注意しなくてはならないのは、データ数と確率に目を向けなくてはならないということだ。

たとえば、階段を昇り始める足はどちらの足からかを調べた時、次の二つのデータを得たとする。一つは10人中8人が右足から昇り、もうひとつは34人中24人が右足から昇った。前者のデータでは約8割が右足から昇り、後者のデータでは約7割が右足から昇ったことになる。その場合は、確率を考えて、後者のデータを使い、「人間は右足から昇りはじめる傾向がある」という説明を導き出さなければならない。
「ちょーむかつく」というような「感覚的な発言」が、説明的な発言を駆逐しないことを祈る。


■人間にも「証明型」と「プログラム型」の二通りがある。前者は相手の立場を考えてなるべく理解してもらえるように説明するが、後者は一方的な命令だけを偉ぶった口調で話す。

数学の証明には、相手の立場を考えての思いやりがある。それゆえ小さいミスがあっても、読者はそれを発見し、直しながら読むのが普通である。しかし「パソコンによる計算」では、命令には機械の立場を考えての思いやりなどはなく、小さいミスもエラーとしてはねつけられるだけだ。

誰でも「プログラム型人間」で通すことは可能だ。逆に「証明型人間」で通すことは容易ではない。それは説明に神経を使うし、反対されたときに説得するにはかなりの労力を使うからである。しかしながら、短期的にはいざしらず、長期的には「証明型」のほうが周囲や部下から信頼の厚い人間となり、成功するに違いない。
証明型人間として力強く生きることは、理解を求めて行動する人間としての「証」である。

■定義の統一
■説明の仕方(仮定をはっきりさせることとデータの説明)
■相手の立場を尊重する構え。

ロジカルな数学の世界の、議論の有意義な秘訣。
有意義な議論のルールとも言える。
また、プログラム型人間というのは、ステレオタイプと共通していると思う。

意外なことに、もっともロジカルな数学という議論の場で大切なのは、相手を思い遣る心であった。
なので、議論がテーマだけど、カテゴリーは「心」にいれてみた。
心は、なんにおいてもはずす事ができないものなのだと思った。
なおのこと「理解」する必要があるだろう。

数学といえば、答えはひとつ。
その○×も大事だけど、もっと大事なのは、そこに至るまでのプロセスを学ぶことである、ということを数学の先生が話していたのを、ふと思い出した。
答えだけカンニングしても、途中の計算がきちんと書かれていないと、満点はもらえない。
数学以外の物事にもあてはまる事柄だと思った。