浅慮

プライドとエリート意識が災いする「集団浅慮」。

3人寄れば文殊智慧のはずが、集団で浅慮になるとは。

破壊的カルトの生活は厳しいながらも、メンバー間で助け合う中で「あたたかさ」「思い遣り」「純粋な人」といった対人魅力や、「われら」という仲間意識を持った集団の雰囲気が形成される。こうした集団のまとまりの良さを示す概念を集団疑集性というが、それを高めるものは、自己愛(ナルシズム)に満ちた優越感や誇りである。
つまり自分達だけが特別の使命を持った選ばれたエリートであると考え、格別のこと(真理)を知った唯一の集団と信じさせるのである。

しかし、この集団疑集性の高まりは「集団浅慮」の状態をも導き、一般社会の規範から逸脱する行動をとらせる可能性が暗示される。集団浅慮とは、一般に同じ価値観を持った結束力の固い集団が緊張した状況の中で何かの意思決定を行うとき、心理的な圧迫から、誤った決定を下すことである。(マインドコントロールとはなにかp187)

一般社会には各スペシャリストがいる。
建築には建築の、料理には料理の、病気には各病気の、犯罪には犯罪の、科学には科学の、それぞれの専門家がいる。

ところが、何か特別な使命感を持つグループで、一般社会とのズレに気がつかない場合もある。

時々、集団が町で不思議な行動をとっていてニュースになる。
それはサリンを撒くことが平和になることだと信じる集団であったり
白い服を着ることが電波から身を守るのだと信じる集団であったり
警察よりも自分たちの検証が確かであると信じる集団であったり
死体が生き返るのだと思っている集団であったり
この祈りだけが本物だと思っている集団であったり。

傍から見ると実に滑稽にうつるのに、自分たちの活動こそが唯一真実だ、信じる人たち。
きっと、みんなそれぞれが特別な使命感をもったグループなのだろう。

自集団で行っている事が、傍から見てどう映っているかみえにくいのは、作り出された「使命感」によってくすぐられたエリート意識やプライド、自尊心が邪魔して、時に自分達が万能であるという錯覚を抱き、自分たちのなかですべてを解決しようとするところだろう。
そのせいで、浅はかで見当違いなことに気がつかないのかもしれない。

ここまで書いて追記しておきたいのは、
「自分だけは大丈夫」とおもうことこそが、もっともよろしくない、
ということだ。
常に点検の必要があるのは、どこか、ではなく、まずは常に自分たちなのだ。