疑問にもっているもの、確信しているもの

来月、【サリン事件から12年目】がくるそうです。

早いものでもう12年。

その頃と言えば、学会2世の私はご近所さんの影響で顕正会に片足つっこんだ事があり、私の家で創価学会VS顕正会で大バトルがあった頃だった。

バトルと言うより、うちのご近所の顕正会員一人に対して、突然多勢でつめかけたうちの母含む創価学会地元幹部達4人。
どちらも何があっても「自分達が正しい」と大真面目に信じているのだろうけれど、やっていることは攻撃的でえげつないし醜いものだった。また傍目には多勢に無勢でかなり一方的な罵倒、非難だった。

それにしても、両者とも「いかに相手を否定するか」だった。
御書を持って相手の教義のおかしさを「重大な過ち」と指摘をしているのに、自分達が指摘されればそれを「そんな些細なこと」と相手の指摘を軽んじる。
相手の行為や過ちを「ひとでなし」と批判しながら、自分側の行為や過ちを指摘されれば「人間ですから」と解釈する。
悪いが、どちらも人間だよ。

この収拾のつかない話し合いも、社会心理学からは分析されていた。
誰でも起こりうる話のようだ。

■人は一般に、ある現象の原因を考えるとき、事象の生じた状況のもつ影響力を過小評価し、一方、主体者である人の影響力を過大に評価する推論をしがちである。
この傾向を「基本的錯誤帰属」という。

■本人にとって都合の良い事態は内的に帰属し、都合の悪い事態は外的に帰属する傾向がある。
(いずれも西田公昭著「マインドコントロールとは何か」p66、67)

私は両会員のおかげさまで、創価学会にも顕正会にも距離を置くことが出来た。


話は戻って、サリン事件。
現場と実行犯に関しては当時マスメディアの情報のみだった。
サイト【「カナリアの詩」】で、しゃれにならない体験談を読んだ。
その後、【直接事件に関った方々や、オウムに入会する前からの親友であった方】から、サリン事件の実行犯の一人である【豊田被告の話】をうかがった。
その方々の話を聞いていても、マスメディアの伝えることはあてにならないと感じる。

ワイドショーは視聴率の為に大衆を煽って盛り上がる報道をする。
いかにも凶悪な人格であると報道されていたが、実際の彼は、誠実で、大真面目に世の中のためにと考えている一人だそうだ。
おそらくオウムに入会した皆さん、そういうまじめで真剣な方達だったのだと思う。
その誠実さを巧みに利用して修行中の殺人、宗教テロリストは作り上げられていった。

この点で気づいた点がある。
・教団に「正しい教えの正しい行い」と”信じて”宗教テロリストになった信者達。
・報道をみてメディアが伝える「凶悪な人格を持った人間」と”信じている”一般大衆。
・松本サリン事件でメディアによって被害者が「犯人扱い」され、それを”信じた”一般大衆。

みんな信じ方については社会心理学的には同じシステムのようだ。
人が何かを確信するとき、実はそれがいかに曖昧であるかは気づかず、見過ごされがちなのだそうだ。

■たとえどんなに強い確信であっても、それは個人的な経験や推論によってなんとなく感じているリアリティ感覚によって支えられているにすぎない。そのことをさして、個人的リアリティという。
またもうひとつのリアリティ感覚もある。それは権威のある専門家の発言とか、多くの人が認めている考えであるとかいった感覚である。これは社会的リアリティという。
またビリーフは、「そうであってほしい」「そうでなければ困る」といった動機付けに影響されて、個人の価値のみによって支えられ、他者からは妄想と呼ばれながらも信じている場合もある。
要するに、人のビリーフは、あまり頼りにならない主観的判断にもとづくものも多いことに気づいてほしい。
自分が正しいとするビリーフがすべて、専門家がおこなうように厳密な分析をして得られた結論であるという人は、まずいないであろう。
(同著p81)」

個人で確信しても素人がいかに分析してもメディアが流しても、専門家からすれば正確には違うことが多々あるのだということ。
そう考えれば、個人やマスメディアが流しているものは、実は曖昧で主観的なものが紛れ込んでいる。そして誰でもそういった情報にひょんと乗ってしまうことがある。もちろん私もある。
そうした人の信じるシステムを利用(悪用)して操作するのがカルト・マインド・コントロール
ひいては誰でもカルトMCにかかる可能性も持っている。

なるほどな話だった。


サリン事件実行犯の一人である豊田被告は、死刑判決になっている。
カルトMCでそれをするにいたったとはいえ、事件で亡くなった人がいて、今でも苦しむ被害者がいる以上、その方達の償いとして受刑はあっていいと思う。
けど、彼らに死刑になってほしいだろうか。
彼は今拘留されながら、カルトMCから解放されているそうだ。
元の彼らしく、とても誠実で、どれだけこの世の中の平和を考え願っていることか。
彼に見習わなければならないことは、本当は山ほどあるのではないか。