チェック

JSCPRの勉強会に参加させていただいて、宗教被害者ケアや対カルトに対する考え方を教えていただき、その考え方に非常に賛同して帰ってきたのだけれども(まだ聞かせていただいているばかりで実践にはいたっていないわけだけれど)、このJSCPRという団体は、一体どういう団体か、普段はどんな活動をしているのか、なぜにそういった活動をしているのか、などなど、まだ具体的には知らないことがたくさんある。

よりによって私に目をとめられたが運のつき、カルト対策のプロフェッショナル集団、JSCPR理事の方にいろいろ聞かせていただくことができた。

私が知るよりももっと昔の、マインドコントロールという言葉すらない頃から地道な脱カルト活動があり、私が思っていたよりも活発で多忙な活動をし、実績もある団体であった。
なのにあからさまに宣伝していないところがいい所かもしれない。
もちろんリアルな実生活でオウム事件のようなテロや暗殺などの危険に晒される場にも遭遇し、カルト団体には目をつけられ、それでもカルト問題に取り組んでいく。

また、カルト団体の動きだけでなく、信者個人の対応、脱会者や脱会者ケアの対応にも目を向けられ、
それらにもチェック要項がいくつもあることを教わった。
その判断基準の中から二つ、自らに照らして考えようと思う。というか、照らし合わせる前から結果はみえていますが。

■一つめ。自分で「わたしは脱カルトができた」という人は、脱カルトができていないいちばんの証拠である。
■二つめ。資格試験を経ず、カウンセラーを自称する人は疑ってかかる。

一つめ。
私は脱カルトがかなり出来ていると思っていたら、どうやらそうでもないらしい。
MC論で「MCが解けるにはかかっていた年数とおなじだけかかる」とはよく聞く言葉。
とりあえず生まれた時から創価学会員なので、疑問をもって非活動になってからの年数と離れてからの時間は一応同じくらいは過ぎているけれど、正式な脱会リハビリや脱会後のケアを受けているわけではないためまだまだ十分とは言えないのかもしれない。
それでも強烈な宗教アレルギーからあらためて宗教へ目を向けることが出来たのは、自分のなかでは進歩だと思う。

また、団体を脱会すればOkというわけではなく、MC論を知る事で脱会者リハビリが出来るわけではない。脱会・非活動はゴールではなくて折り返し地点。そこから肝心なことはスタートする。
この折り返し地点によってはまた元の団体に戻ってしまったり、別のカルトに惹かれていったり、脱会してもカルト的思考はそのまま残ってしまい、それはまた危険なことでもあるという。
当たり前のようで意外とそこの対策は一般には忘れられている部分ではないか。

二つめ、
現在休止中といえど、相談室に席を置く以上は私もかかってしまう話でもある。
私は正式なカウンセリングを受ける側の経験があり、その体験談の中から話すことは出来ても、それはあくまでも自分自身の経験の中でしかなく、施療の資格試験をきちんと受けているわけではない。
もっとも、足りない事ばかりなので人の相談にのるよりも普段は教えていただく事のほうが多い。
「カウンセラー」と「相談室」という言葉には、一般の目からみてもあまり差は感じられないし、
普段は同じようなニュアンスで使われていることがよくあると思う。
ラジオで流れる芸能人のフレンドリーな人生相談も嫌いではないけれど、
本来はカウンセリングも命の電話のような相談も、きちんとした訓練を受ける必要があり、そこに定められた規定やチェック機構が存在する。カウンセラーに違反行為があれば、場合によっては法律に触れる場合もある。

インターネットでは、様々なカルト団体脱会者や関係者が、自分の実体験と独自に学んだ知識で脱会者の相談などをしているケースはしばしばみられ、そういった善意の方達には私自身も心底お世話になっているし、今でも相変わらずお世話になりっぱなしだったりもする。
そして、それが行われている理由も人によりさまざまで、必ずしもそれは相手の為に行われているとは限らない。
それらすべてが本当に相談機関やカウンセリングとして機能しているか、また正当な範囲で行われているかなどを確認するシステムが確立されているかどうかはまた別問題であるようだ。
そういう「相談を受ける側」のチェック機能がない場では、善意の一般ボランティア相談員から、エセカウンセラー、まったくのど素人までも入り乱れて活動できる。
そしてカウンセラーの中には、悪質なカルトも存在し、それらは非常に危険であることも教わった。
悪質なカウンセラーもはじめは善意の皮をかぶって、親切丁寧であることには変わりない。
それらしく専門用語を拾って当てはめて使われたり、ちょっとした心理トリックを使われれば一般人はその言葉のトリックに気づきにくい。
それらを考えれば「悩み相談請け負います」という看板は疑ってかかれというのも納得な話だ。